ハンセン病との縁
    日本医科大学付属病院皮膚科/竹崎 伸一郎

医師になって3年目ころから、ほぼ毎年のように沖縄の宮古島を訪れるようになった。親族に、兵隊として宮古島で終戦を迎えたものがいて、戦争中の罪滅ぼし/島民への恩返しの意味であろうか、彼は沖縄の復帰前から、宮古島の復興と内地を訪れる出稼ぎ島民への援助をしていたのだが、年に数回の彼の宮古島詣でに私を連れて行くようになったのだった。当時、宮古島には皮膚科医院が無かった。初学者の私ではあったが、引き回されるままに公民館や、個人の家などで無料診察をし、OTCの薬剤でどうにか皮膚科診療をこなした。それがサトウキビ畑の真ん中だったりしたこともあった。ある日、予定の会場に到着したところ、何人かの受診予定者が一人も居ない。聞いてみたら沖縄の高校が甲子園で久し振りに上位まで進出し、島民は全員、テレビに釘付けとのこと・・・2時間遅れで診察が始まった。
夏の休みはこうして潰れてしまうことが例年であったが、厭ではなかった。数度目の訪沖の際、実は宮古島の南静園というハンセン病の療養所に母校のOBの馬場省二先生という方が所長でおられ、元々皮膚科医であられるために療養所にて、皮膚科の外来診療もされていることがわかった(実はこれは「宮古方式」というユニークなハンセン病撲滅のための施策の名残でもあったらしい)。私は皮膚科に関しては宮古島は無医村であると誤解していたことと、数年来、ご挨拶に伺えなかった非礼をお詫びするために、ヒトを介して南静園を見学させて頂いた後に、一席を持って戴いた。
馬場先生は柔和、温厚なご尊顔をされ、話し方も穏やかな方であった。しかしながら宴席は地元の料亭で、ヤギを一頭丸ごとつぶしてヤギづくしを振る舞って頂き、その豪快さには圧倒された。宮古島では最高のもてなしであると後で知った。実は宮古島の伝統文化である「お通り」の洗礼を受けることを期待していたのだがそれは無かった。そのかわりにヤギの睾丸の刺身を珍味として勧められ、これがまた一筋縄ではいかない代物で、飲みこんでも飲み込んでも、喉を通らず閉口したことは忘れられない。
馬場先生が引退された後は、確か鹿児島大学か長崎大学から非常勤医が来島されていた。馬場先生ご自身はご退職後は、乞われて、島の夜間救急センターの所長を引き受けられ、いつまでも島民のために尽くされたという。当時、私は、将来は宮古島で開業することもありうると考え、島の隅々迄バイクで現地調査し、その可能性を追求したこともあった。しかしながら愚図々々しているうちに宮古島の医療事情もかわり、専門の皮膚科医院が誕生し、私の宮古島での開業話とハンセン病との関わりは一時、途切れることになった。
その後、約20年振りの再度のハンセン病との接近については本稿以外の機会に恵まれればご披露させて頂きたい。
竹崎 伸一郎 (たけざき・ しんいちろう)
1975年 東京大学医学部医学科 卒
最終学年の夏休みに見学に訪れた北里大学皮膚科で西山茂夫先生に出会い、卒業と同時に北里大学病院皮膚科入局
皮膚におけるリンパ球機能に興味を持ち、東邦大学医学部小児科学矢田純一教授免疫研究室、札幌医科大学病理学菊池浩吉先生研究室に短期留学
1979年   米国コロンビア大学皮膚科留学
悪性リンパ腫・単クローン性抗体の研究
1981年   帰国。北里大学医学部皮膚科講師
1986年   関東労災病院皮膚科出向
1987年   北里大学医学部皮膚科復職
1989年   武蔵野赤十字病院皮膚科入職
1992年   武蔵野赤十字病院皮膚科部長
1999年   日本医科大学付属病院皮膚科
2000年   日本医科大学付属第二病院皮膚科部長
2003年   日本医科大学付属病院皮膚科復職
専門
皮膚の免疫・アレルギー学、薬剤アレルギー、
悪性リンパ腫医学博士号 2006年3月
非常勤講師
杏林大学医学部皮膚科
中華人民共和国遼寧省瀋陽医学院名誉教授
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