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| 奥田謙藏(1884-1961)は昭和28(1953)年に市川菅野に転居し千葉における彼の活動を開始した。昭和11年本郷根津宮永町に新築した家は、栃木長畑に疎開中に依頼した管理人が居座ったために転居せざるを得なかったためである。 |
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| 養女のサイ殿から伺ったところによると、根津以前の瀧野川時代は同じ町内に住んでいた湯本求眞がしばしば立ち寄ったという。求眞は大正9年から昭和9年に駒込に転居するまで瀧野川に自宅をおいていた。 |
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| 奥田謙藏が世に出たきっかけは、求眞の畢生の大著『皇漢医学』の第一巻に跋を寄稿したことである。昭和2(1927)年のことであるが、これは求眞の謙藏に対する格別な期待の表現であった。というのは、明治43年に、漢方医学を滅ぼすべからずとして敢然と世に主張を問うた和田啓十郎から、湯本求眞は生涯忘れることのできない恩恵を被ったことがあったからである。 |
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| 時代は大正4(1915)年にさかのぼる。この年は奥田謙藏が日本医科専門学校を卒業した年次であるが、湯本求眞にとっても記念すべき年となった。それは私淑する和田啓十郎から『医界之鉄椎』第二版に自己の治験と漢方医学に対する考えを述べることを求められて実現した年でもあったからである。さらに第二版には求眞の跋文が掲載されていた。和田啓十郎が開いた漢方復興の扉を和田自身が以後誰に託すのかを内外に明らかにするという意味で、それは決定的な措置であった。和田の心中を忖度して求眞の漢方への情熱はいやがうえにも高まったであろうことが推測される。 |
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| 出版の翌年の大正5年に啓十郎は短いが波乱に富んだ45歳の生涯を閉じた。今やすべてが求眞の手に託されたのである。求眞は、和田が自分にそうしたように、『皇漢医学』の跋を謙藏に書かせることで彼に機会を与え自覚を促そうとしたのである。 |
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| サイ殿によれば奥田家にぶらりと寄った求眞は、奥田夫人とサイ殿の手料理を賞味し杯を重ねたという。斗酒なお辞せずという求眞と酒を好むがあまり飲めない謙藏とはよく馬が合った。酒の席では漢方の話はせず、もっぱら世間話に興じたというのがサイ殿の思い出である。 |
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| 奥田謙藏は、四国丸亀の漢方医奥田光景の次男として生まれた。祖父の三井公圭は吉益家の門に学んだといわれ、また長崎のシーボルトの塾に遊学したともいわれており、公圭氏以前から医家の家系であった。謙藏は大正4年に日本医学専門学校を卒業すると、いったん郷里の丸亀に帰り、父光景氏から傷寒論、金匱要略、素問、霊枢、難経、本草綱目、温疫論、十四経などの古典を教材に漢方の実地教育を受けた。この辺は奥田謙藏自筆になる昭和9年4月の『漢方家専門標榜許可願』に詳しい。 |
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| 湯本求眞は奥田謙藏の学識を認めて、昭和10年の『漢方と漢薬』10月号の『求眞医談』に、「現代日本の漢方医中漢籍の造詣深いのは奥田謙蔵氏位のものであらう」と記した。 |
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| 静と動、奥田謙藏と湯本求眞には、この二文字になぞらえうる配剤の妙がある。だから、昭和16(1941)年の求眞の姫路における急逝に対する「余の湯本氏と深交を結び、生死を誓ってともにこの道に専念したるは実に二十余年の昔にあり」との奥田の感慨が読むものの胸を打つのである。 |
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