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| “ユタハーリヌ、チィダラカヌシャマヨ”と合いの手がはいる安里屋ユンタいう沖縄民謡がある。これがつい本島人には、“死んだら神様よ”と聞こえてしまう。日本人からすれば、死んだら神になるのは当たり前の感覚からかも知れない。日本海海戦を勝利に導き、現在も神として東郷神社でまつられている東郷平八郎元帥のように。 |
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| が…である。もしあの世で、東郷元帥と中国金元医学の大家李東垣が会話をしたとしよう。“私も神になりました”と東郷元帥。“え!?。違いますよ。もう神はなくなったんですよ。”と李東垣。“祖国の為につくしたから、神にしてくれたんです。”“ばかな。生きているからこそ神があるのです。”“いや。生きているうちに神なんて、恐れ多いことです”とこんな具合に、永遠にカミ合わないであろう。 |
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| 読者の方はもう気づかれよう。元来日本人のもっている神(以後はカミ)と中国医学の神とは、異なる考え方なのである。更にキリスト教のGODも神という。つまり我々は以下の三つの『かみ』の概念をもっているといえる。 |
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1. 和語のカミ。本居宣長はカミにつき“優れて常ならざるもの”と述べている。医学の神様、野球の神様のように、常人ではない素晴らしいものをカミとしてきた。したがって、どこにでもカミはいるし、またカミになれる。八百万のカミである。
2. キリスト教のGODの訳としての神。
3. 中国思想由来の東洋医学の神。以下これについて語りたい。 |
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| 神の字の示は祭壇であり、申は天空に伸びるもの、稲妻を現す。神の字は本来、稲妻のように自然が見せる不思議な力、自然を動かす超自然的力の意味であった。ここから、派生して生命を動かす力の意味となったのである。 |
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| 考えてみれば、人を生かしている力はどこから来たのか不思議ではないか。天のGODからもたらされたと考えた西洋に対し、東洋医学では体の中にその力があると考え、それを神と呼んだのである。つまり東洋医学の神とは、体内にある生命活動をおこなわせる大本であり、生命そのものともいえる。“死んだら神様” でなく、神があるから人は生き、神が無くなるから命は終わるのである。これが失神のいわれである。神(生命)が失われ、意識が消失した状態というわけである。更に東洋医学では、元気になる事を得神という。 |
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| とすれば神経とは、生命(神)が通る道(経)であり、生命調節の場所や経路の意味から創られた江戸時代の訳語であろう。東洋医学の基板があったからこそ生まれた、素晴らしい訳語ではないか。そこに伝統文化の誇りを感じるのは、私だけであろうか。外来語がはびこる現在、自らの言葉で考え理解しようとした先達の熱意を忘れたくないものである。 |
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